好き勝手が自由というのは胡散臭い?

自由がもてはやされた20世紀から現代ですが、何か、そこで中核になっている「自由」という言葉の意味が 何か、正しい方向と違うのではないのかと思うのですが。

この自由というのは、好き勝手なことをできるという意味が多分に入っているとおもうのです。

最初は、信教の自由から始まり 政治の自由もだんだん広まりました?

がだんだん、その自由ということのエントロピーが増大して、(つまり、綺麗な家が廃墟になるように こんがらがって)レディガガが雑誌のトップに裸体の肉盛りを出せるまでになりました。

本当の自由というのは、果たして、この宇宙に存在するのでしょうか?

自由と自由の相克する中に悪が現れるといっている人がいて、自由はある程度引っ込んでいなきゃいけない。

昔はつつましく生きることが、当たり前とされていましたが、今は、みんなやりたいことがやれることがいいことだという「自由」のもとに自由と自由の相克が、半ば認められるようになってきたんじゃないかと。

たとえば 好き勝手テレビでお笑いやりたいほうだいのドリフターズの中に、結局上下関係があり、いじめがあり、それが彼らの演技の中に現れてしまって、子供が見ることで 学校でいじめが増えてしまったんじゃないかなと。

それと 好き勝手やるというのは、実は、本当の自分の意志以外の何かが入っても、それを許容してやりたいことにしてしまうことも考えられるのです。

テレビを見てこれを買いたくなって、買うというのは、なにか、判断が抜けているのです。

それは、テレビに本当の自分の意志じゃない思いを吹きこまれているのかもしれません。テレビは、上手な宣伝の方法をみにつけていますから、彼らは彼らの自由のもとにやっているのです。

カントという哲学者の名言があって、本当に自由になるということは、好き勝手に振る舞うことではなくて、自律することだというのです。

自律するという事の意味は考えれば考えるほどわからなくなりそうです。結構深いです。

少なくとも自分がロボットじゃなくなってゆくことだというのはわかります。

また好き勝手に振る舞う子供を自律してるとは言わないでしょ?なんかそれも暴走ロボットみたいなの感じません?

ロボットにも、リモコンで動くロボやこうなったらこうする、この状態であればこうするというif-then-elseの思考のロボもよくありますが、自律運転と言うと 目的の状態までやり方を試行錯誤しながらちゃんと知能みたいなの持って行動する意味になるんですね。

今の人は自分の「自律」を育てられる環境にはいないです。だから(自分も含めて)若い人は子供臭いのです。

そうして、if-then-else思考や受信したものを反復する思考が埋め込まれいろんな、そう、うさんくさい宣伝媒体にのせられているのです。

誰の言い分も絶対ではなくなり、真に自律できた時、ブッダのような偉大な存在になれるのでしょう。

彼は悪いことは何もしません。自分の自由をひとにぶつけません。

それどころか執着から完全に離れているため、教えを説くだけしかしません。それもいつも教えを請われてからかえします。

でも真の自由はブッダのこころにあるのです。自律しているのですから。

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