自分のコンプレックスを生徒にぶつける先生

教育者というのはときにいくら誤魔化しても自分の気に入らない子供を怒りをぶつけて直そうとします。本当に、教育者のすべてに、愛があるのか、疑わしいのです。

教育者というのは権力を持っているわけです。みんな教育者の言うことを聞かなければ、従わなければいけないことになっている。どんな揉め事も教育者の裁量で解決する。教育者が任された集団を一人で引っ張って行く。

そうです。

なにかコンプレックス、つまり、虐待を受けたとか、見下されたとか、いじめられたとか、権力を持つことで心の傷を埋めたい人、人を支配することで快感を味わいたい人が、先生になることを目指すこともありうるのです。

また、ネットの噂によると、ロリコンが教師になっていることもよくあるのだそうです。人の心が読めると主張するネットユーザーが、ほぼ100%ロリコンだとか言う極端な例まであります。

そういう教育者は、人の心を直接読めないので、なにか生徒が困っていても助けられないし、独裁政治をやってわがままに振る舞うかも知れないし、心の病を持ったまま教育者をやっているので、いろいろな恐ろしいことが起こるのです。

どうも、日本の教員試験ではクレペリンの類の性格テストを行っていないという噂もあります。どうりで、公教育がむちゃくちゃなのです。

何も感じない人が勝つ

心が読めるようになりたいという人は多いと思います。

心が読めるのは第6感が必要ですが それは、難しい仕組みではなくて、五感というのは感覚器官を通して感じるのですが、第6感は 心が直接感じるものです。五感とあまり関係なしに、心が直接感じます。

心が素直で、外部から思いが入ってこれる心であれば、心が読めます。

自分が読めるのはほんのわずかですが、言葉の言い回しやしぐさは読めるつもりです。心の内の方にある思いはバリアが包んでいるので外部から読むのは難しいのです。

心が読める、そうすると結構困ったことになります。ちょっとしたことで気分が悪くなるのです。とくに人間関係です。

学校のちんぴらが相当強い念力で「死ね」「殺してえ」とかいいながら、問い詰めると本気で殺したいわけではないだと?いや念力なんて証明が出来ないから、こういうのはお前は冗談を本気にしたと先生に言われてしまうのです。

こっちとしては悔しくてしょうがないです。声だって大きくて舐めたような口調の場合でも残念ながら冗談だと言われます。親御さんはそれが現代だと思ってください。

最近も先生が苛めをかばう子供への暴行を止められなかったとか、その先生自体が苛めだと気付かなかったとかいう事件があります。

いじめかばう女児を殴る蹴るの暴行、担任の目前で続くも制止できず 三河の公立小 (痛いニュース)

このように 現代は人の心を読める人が少なく、読めない人がおもいっきりわがまま放題して勝つ時代です。このように人の気持ちを適当に読まないでつっ走ったほうが楽に生きられるという、おかしいことになります。

そういう社会では良心のかけらもないサイコパスこそが支配できるのです。陰謀論で指摘される恐ろしい展開が繰り広げられます。これは仏陀も指摘していたことで、中村元のスッパニパータにも一言書いてあるはずです。

心の読める人が全員サイコパスを無視することで状況は直ると思います。

カルト宗教は一見すばらしい

< 破壊的カルト宗教についての考察 > このようなサイトがあり、きわめて鋭いカルト宗教の分析をされています。みるべきところは4、5、6番です。カルト宗教の雰囲気は一見すばらしいと書いてあるところです。

「破壊的カルト宗教」は、「あたたかい家族的な雰囲気」に包まれ、「居心地がよい」のが普通である。

これはぐっと来る言葉です。伝統宗教の方が、重たくて近寄りがたい雰囲気をしています。 カルトと言われている宗教は別のサイトによれば「アットホーム」な雰囲気がすると言います。そういえばそうです。くらい雰囲気がして悪いことばかり教えているのは悪魔結社というのです。カルト宗教はそういうものではないのです。 カルト宗教の信者は、純粋なのです。愛や正義のためにけなげに教えを実践しては、自分のエネルギーを失い周りまで巻き込みます。

教義が「とてもすばらしい」時は、お気を付けください!  「ごリッパ教義に納得」してしまうと、取り込まれます。

カルト宗教の教義はとても立派だと書いてあります。つまり、古今東西の宗教のいいところだけ引っ張っておいて、感動させ納得させたその先に、だから教祖を信じなさい、だから教義は絶対です、そういうことにするのです。

カルト宗教は教えも実践も美しいものです。しかし、自分自身から無理をして教団に金や労力を大量に貢ぐように自然となるようにできているのが違うのです。

本来、宗教に差し出した金や労力より本来の仕事や家族、友人関係がはずみ 幸せになる教えであるものこそ本物でしょう。

であるからしてカルト宗教の教えはすばらしいけれど絶対に必要なものがたりないのです。 それはたとえば大げさなプラス思考で後ろを振り返らせないのと、敵を常に作ること、どんなことを考えるのも元となる考え方を用意し、自力で考えないようにします。

自力で悟りへ向かうための情報がじつは全くなく、むしろ自力で悟るのを抑制するはずです。

カルト宗教の組織システムも相俟って人間からカルト宗教の思想や哲学、発想や思考を行うだけのロボットになってしまうのです。

つまり素直ですばらしいと思われている人ほど、気を付けないといけないのです。伝統宗教でも説明していないことがありますが、言いなりになるのが人間の仕事ではないのです。 自力でゼロから修行するべきです。

不可知論への誘い

唯物論も、宗教も、物事の本質をこうだといっています。しかし、物事の本質を分かった様でありながら、決めつけているのがこの2つだと思います。

宗教では神がすべてを作られたといいますが、そういう証拠は見つかっていないし、神が何者かというのはもはや分かるものではありません。

唯物論はすべてを物質でとらえますが、なんか普通でない事象があらわれても受け入れられない、狭い考えです。

どちらもなにか思考から逃げているところがあります。

不可知論というのは分からないというのを素直に認めるとらえ方です。物事の本質は人間には分かるものではないというのが不可知論です。宇宙はとてつもなく奥が深く、ダークマター、ダークエネルギーとか、本質に迫るに連れてますます謎めいてゆくものです。

そのような宇宙を素直に認めるべきです。

不可知論は分からないというのが前提になっているので 自由に発想でき非常に思考が進むはずです。あの世があるかもしれないけれどその本質は何?そこまでの疑問を持てます。

仏陀のような本当に宇宙の本質が分かったと思われているような偉人でさえ伝えきれないのが宇宙の本質であり、みんな実感していなくよく分かっていないのに宗教や唯物論を植え付けては人民統制や政治闘争、戦争までやるというのがおかしいです。

本質は分かっていないけれど分かっている部分だけで自分たちは生きているんだというのを自覚しなければいけないと思います。