カルト宗教の教えから考える「全ては逆説」

私のテーマはもっぱら一つのカルト宗教であったが、他のカルトも建物がきれいで、掃除もしてあって波動も良さそうで、それで看板で あれ?と思ったところがあります。

カルトの教えは美しく、批判のしどころもないはずなのに、やってみると心がおかしくなり、治せなくなり布施を差し出すことだけを正解に持って行かれます。

本当に美しいです。信仰が深く敬虔です。真面目一本で、無駄な欲や性欲を始めとする煩悩もなく、くだらないテレビをみなく周りの下劣な話題に加わりません。

そうした会員は美しい心を持っているようにさえ見えます。しかし そうしたポリシーがあるにもかかわらず、やはりおかしくなるのです。学生信者同士ではいさかいが全く無い・・・はずだったのに、特に大人になって特に組織と金目のことで思い切り喧嘩するようです。特に家庭環境が辛く進学、就職で障害があります。

私はカルト宗教がええ古今東西の宗教の教えをうまくまとめ、全く信者に疑問を挟ませずに搾取するやり方を見て、「全ては逆説だ」と思わざるを得ません。

事実はてなアンテナ「幸福のアンテナ」で取り上げられているカルトアンチブログではしょっちゅうその今までの宗教と異なる逆説を発見した報告があるのです。近年は楽山日記さんが多いです。

確か総じてどのような逆説だったかというと・・・

  1. 信仰心やあの世の確信は100%ではない。どこかで証拠のないはっきりしない何かを感じるがそれを認める これこそが更にいい道を見つけたとき、すっと転換できる決めて
  2. 信仰のためなら命まで捧げることについて、それができるかわからないと感じ認める
  3. 自分が一番大事。他の存在を一番にすると自分がおかしくなる。与えきりではついに心の種火が消え失せる。自分のために努力しそのための時間をさく。休みを取らせないのがカルト。休んでくだらない遊びをしよう。
  4. 自分の好き嫌いをはっきりする。やな食べ物は食べない。やな人付き合いはしない。耐えられない努力はしない。戦後自虐史観はもはやひとりひとりのレベルで存在するがもう自己防衛をわがままや意地悪とは言わない。搾取を許すな。神から分かれ出た個体として体一つ分の利益は求めろ。さらに映像や音声の作品は徹底的に自分に適したものを探す。倫理に反するなど劣悪な作品なのに心が共鳴するものこそ、自分の心の汚さを映し出し反省につながる。
  5. 自己啓発、受験戦争で勝って大企業で出世や「スーパ大富豪になってやる」のような自分の勝利をつかむ目標に持っていかない。それはエゴだから。
  6. さらに功徳や名誉や霊的レベルアップや高級霊になる目標を持たない。それもエゴだから。
  7. 無理に自分を作り変えない。無理に反省しない。それもエゴだし、心の底のレベルから修復をかけないと更におかしくなる。そこが変わらないのなら時を待つ。
  8. ちょっと悪い思いや悪いことをしただけで猛烈に神に謝り反省を始め小一時間いじけるというのは逆に精神不安定で地獄行きに。
  9. 現実を見る。人間が平等に作られていないのを見る。自分のできないことを認める。無理に菩薩にならない。平等主義は近現代に狂ってしまったがはるか昔において素朴であり当時の素朴な信仰もあって間違ってはいなかったはず。
  10. 地獄や地獄霊や原罪を全く気にしない。逆にしょっちゅうそれらを語る者がカルトだともいう。罪を負っても泣かないで一歩一歩戻れ。
  11. 異性欲はやみくもに禁じてはいけない。それで爆発したカルト教祖も、女性性が怖く女や母や女神をも罵倒した管理人もいる。慎重に。エロ画像がなぜ氾濫する必要があるのか考える(当の女も見るぞ)。我慢できないなら踏み出してもいいらしい。
  12. お経や祈願や研修にとらわれない。エゴで持って唱えたらそれでいいものでもなく、すでに毎日が研修であるから。
  13. ドラマの斎藤さんみたいにならない。ごく自然体で周りを挑発しない。無理に周りの人間を書き換えようとしない。これは障害児教育のやり方。
  14. 宗教でも学校でも会社でも疑問に思ったことは考え口に出す。疑問を消そうとしない。そうやって科学や心理学は発展したのだし。何が幸福の科学だろうか。
  15. 周りのくだらない話題に合わせる。なぜかというとそこで語られる知識を得るのではなく、それ自体が愛の交換であるから。
  16. ただでできる、安くできる功徳や心や脳の向上のやり方を探る。自分で修理や裁縫をするとか、自分でパソコンの動きを軽くするとか。
  17. 組織を第一にしない。組織に入ると人間はその細胞になり、その野望や派閥闘争、上下関係に巻き込まれる。人間一人では止められない。とくに宗教を組織にしてはいけないというクリシュナムルティの説が有名。
  18. 何も「偉くない」ごく平凡で普通であることの尊さを知る。むしろそこに真理そのものがあるのではないのか。

私はむしろ組織宗教が今でも政府とくっついているように人民支配のやり方の一つで、人民に倫理観を覚えさせつつ強力な魔術によって政府を転覆されないように心の力に制限をかけるコントロールの一種だったという結論に至ります。だから宗教の教えの中にそうした制限コントロールをかける何かはすでにあったのです。これは学校も学術会議(特に科学、電磁気など)も会社も同じで道理で一定数そういったものに抗う自由人や芸術家がいたわけです。自分たちの食い扶持のために、自分たちしか真理をわからない、自分たちを覆せない、自分たちがいなければ何もできない状態に持っていきたいのです。

カルト宗教はそういった仕組みを最大化させ教祖だけが得をするように仕向けているのですから、まさに教科書的で、かつての堅苦しい聖書の解釈による天動説や異端尋問に類する問題を引き起こしあげく教祖の教えをそのままコピーしかできず従来の宗教の限界や間違いをすべて統合させた古すぎる宗教になるのです。

私は急に信者が浄化される宗教というものに警戒しなければいけないと感じています。カルトの手口の最初が急に人を良くする、本当に浄化さえするものではないのか、オウム真理教の音楽は今でも非常に評価が高いし、最初はいっぱい得をさせるのは投資詐欺みたいです。本当に心が浄化されるから感謝して信じ、自らマインドコントロールされる。おそらく夢を見れるのはほんの1,2か月ほどでしょう。本物はむしろ自らのペースで修行を進めさせなかなか人が変わらないと思われます。

さて新しい信仰のあり方はどうなるのでしょうか。アンチブログを見てもわかるようにカルトアンチはだいたい自分独自の道を歩み出すものであります。唯物論から神道までさまざまな人間が自身で世界を観察しその実相を探っています。そのために自我は欠かせません。自我をなくすのではなく育てることにこそ真にカルトを滅ぼし正しい信仰へ持ってゆくのです。