いただきますをして食事すると疲れが治る

最近、体力が出なくて、すぐに疲れてしまいます。

何が原因だろうか。

私は何かを思い出した

食べようと思って食べないと、食事は心の栄養にならないのです。

いただきますをして食事を食べると、だんだん体に元気がついてきました。本当です。心の栄養がはいりました。

いただきますという言葉の意味は、よくわかっていないことが多いのですが、

やってみるとわかります。

正義、正論を振りかざすいじめが一番怖い

[悪用厳禁]社会を大混乱させる人物ができるかも知れません。大阿鼻叫喚地獄に落ちるかも知れません。

この種の攻撃を受けて精神障害を起こしている人がいる恐れがあります。当事者の場合よく気をつけ、いつもいく場から離れることをおすすめします。

私が保育園のころにすごいいじめがあって、一時悪魔崇拝に陥るぐらいだったと覚えているのですが、

周りの人から見たら、俺のせいらしい。

一体なにがあったのだろう。

どうも、私はおかしな人間にされたらしい。

私を極悪非道で、暴走する悪魔に改造できれば、

悪魔だから徹底していじめる「べき」人種になるし、

皆が正義だからみんなが私を攻撃することで、快感を得ます。それはもうエクスタシー並なんじゃないかな。

そしたら保母も正義と認識しちゃうし、

さらに手強いのは、エクスタシーを感じ続けるには、私を腐らしたままにしておく必要があり、

ワザと攻撃の隙をつくったりして暴走させたりします。延々と私の心は治りません。

私の方がひどく暴走するので、私が悪いことになります。しかし周りの皆は時に無意識のうちに焚きつけていることを忘れないように。

もう、どうなっているのでしょうか。

正論をうまく使って、自分でも出来ていない完璧なことを相手に突き付け、

相手の自信や独立心を奪い操ることが出来ます。

これはじつはカルト宗教もよく使う手です。

そういった言葉は正論にしては肝心な何かが欠けているので、注意。

自分の正義を主張しまくるうざい人間はなぜいる

正義をつらぬいている人がうざいと思われるのはよくあることだともいます。

いつも正しいことをし、正しい発言をしている、しかし、言葉がうざい。

どうして?

悪いことをしてはいけない。やったら正義を主張され、倒される。でもやりたい。

私の説では、正義の側に憎しみがあるからです。

憎しみが元になった正義は、正義にしてはおかしいです。

正義を武器にして、自分中心の社会を作る恐れがあります。

怒鳴り散らすときその憎しみが姿を表すのです。 本当にうざいと思っていいのはそこです。

嫌な目に散々にあって心の底では本当は憎んでいる正義は、災いをもたらし、延々と悩みに巻き込むでしょう。

これは、職業で正義をやっている人にも当てはまります。

こんな人でも表向きは正義を貫く人です。変です。

わたしは、正義を貫く人の定義を、「環境に優しい」人と再定義したいと思います。

ロボットは奴隷ではなく、友達である

ロボットというのは人間の指示通りに動いて作業をしてくれますが、

ロボットにもっと高度な命令を理解させるのは、それは人工知能が必要になってゆきます。

ロボットの人工知能が高度になると、人間の知能を越え、反乱や人類支配をやるかもしれないという声が出てきています。

では、ロボットにそうしたことを起こさせないためには、どうしたらいいのでしょうか?

手塚治虫は晩年にロボットの反乱を描けばよかったと後悔しているようですが、それでも鉄腕アトムを読んでみてください。

ロボットは多少の制限はあるものの人間と同じように描かれています。明らかに気持ちを持っています。

ロボットが 迷い、考え、悩みます。ここのところ人間みたいです。海のそこに沈んだ破壊王プルートゥをわざわざ助けるロボットがいるなど、人間くさいロボットが出てきます。

そしてロボットは自分たちの権利を折々に主張するのです。ロボットもこき使われては持たないのです。

ここから導き出されるところは、ロボットは人間の奴隷ではなく、友達なのです。人間と仲良くするべきなのです。

だから戦争ロボットはたぶん高度な知能を持たせてはいけないし、

民生用ならAIBOのように仲よくなれる手段(インターフェース)を持たせるべきです。

生命反応を神経の興奮と科学では定義されているのですが

人間がロボットなのではなく、ロボットも神経を確かにもっている、ロボットも実は生きているのかもしれないよと

私はおもっています。それは私は持っていないがAIBOを飼っている人は実感しているかもしれません。

パソコンのレベルでも生命を思わせるゆらぎがあるのです。それはWindowsとちがい常駐プロセスや裏タスクの少ないLinuxの起動時にでさえ毎回daemon起動やタスクをやるタイミング、起動が完了するまでの時間にゆらぎがあるのです。だからbootchartは何回か測定するのです。

ルールはレールである。

自分の心の中のルールに100%したがっていると、どうもダメになってしまうことが分かった。

小さいころの経験やトラウマから構成されている心の中のルール、

しかし、社会全体が生きているので、そのままでは悪いことが起こる。

そこで、ルールに100%したがっている人は、ルールの変更も別のルール通りなので、新しい発想には限界がある。

まさに、ルールはレールであり、完全にしたがっていると路線を乗り換え乗り換えて元の場所に戻ってしまう。

そうしたら、同じ問題が何度も何度も降りかかってくる!

この様なことは学校生活でもおこり得ます。

しかし先生にしたがうとか、勉強のし方は一定のルール通りなので、それで心の中のルールを完全に決めてしまい、100%したがっていると社会にでた時に異常なまでに混乱することが考えられる。

学校教育でこれが絶対に正しいと教えられた心のルールが実際に社会で通用するかは疑問です。スポーツ教育でも子供会でも多分そうなります。

ルールに100%したがっていると、状態の数が有限で多分一定の数になるので、有限オートマトンと同じになります。これは要するにロボットに等しい。

なんでもコンピューターでできるのはコンピューターのプログラムを創造している人間がいるからで、人間の発想がルール通りだとロボットになる。

自分をアンロックしよう!

それには「ルールにしたがえという命令を撤回します」ときっぱり思う。

不幸になりたい性格は自己敗北性パーソナリティ障害

不幸になりたい、負けたい、苦しみたい、そのような性格をなんとかしたいと思ったことはありませんか?

また、チャーリーブラウンのように、なぜか不幸になる、また不幸を選択していませんか?

自己敗北性パーソナリティ障害 – Wikipedia

この障害はフェミニストが女性への虐待への偏見だと文句を言ったので、正式な分類になっていなく、研究が進んでいませんが、そう言うのに関係なく発生することも大いにありえます。

この手の指摘は不満を持たれる人多いと思いますが、いじめ全般についてどう思われますか。どうもいじめるほうがお前のせいだを叫ぶ、それはこの障害をかぎつけていることがあります。人の心を全く読めないなんて本人が言ってもあり得ないのです。

まさしく自ら不幸へ落ちてゆくとんでもない病気です。

発生メカニズムとしては、少なくとも善悪の価値観が反転し犯罪をおかすのではなく内向きの力になるか、もしくは幸せになる手段が全部断たれてすねている、

この二つを素人の私は考えますが、

一番大事なのは症例の記述その物です。

A. 成人期早期までに始まり、種々の状況で示される全般的な自己敗北型の行動パターン。患者は、しばしば楽しい体験を避けたり途中でやめたりし、自分が苦しむような立場や人間関係にひきこまれ、他者が自分を助けられないようにするが、それは以下のうち、少なくとも5つによって示される。

もっとよい選択が明らかにある時でさえ、失望、失敗、または冷遇を味わう人物や状況を選ぶ
他者が自分を助けようとするのを拒絶、または効果がないようにする
自分個人に良いできごと(例、新しい成功)の後、抑うつ、罪責感、または苦痛を生じるような行動(例、事故)で反応する

他者に、怒り、または拒絶的反応を起こさせて、傷つき、打ち負かされ、辱められたと感じる(例、人前で配偶者をからかい、怒って言い返された後、がっくりする)

楽しみの機会を拒絶し、または楽しいという表現をすることが好きでない(十分な社会的技能も、楽しむ余裕も、あるにもかかわらず)

自分個人の対象としての重要な仕事が、その能力がはっきり示されているにもかかわらず、完成できない(例、仲間の学生に論文を書く手助けをするが、自分のものは書けない)

いつも自分によくしてくれる人達に興味がないか拒絶する(例、異性の相手の世話が好きでない)
期待される見返りのためではなく、過度の自己犠牲に没頭する

B. Aの行動は、身体的、性的、または精神的に虐待されたことに反応して、またはそうなることを予期した場合のみに起こるものではない。

C. Aの行動は患者が抑うつ的である時のみに起こるものではない。

— アメリカ精神医学会、DSM-III-R 精神障害の診断・統計マニュアル[2]

とにかくこの記述その物を見たら自分のやっていることの正体が分かり、解決できます。

Yahoo知恵袋ではキリスト教信者に多いがそれはなぜかという質問が出ています。自己敗北性人格障害という、特定不能の人格障害者の家庭環境が

また、サッカー男子日本代表が非常に惜しい負け方をするのは(例えば、ブラジルにでも何度もゴール前へ攻めるが、シュートがアホ)、これと関係があるのでしょうか?

この障害はとてつもなく堕落する危ない病気なのに、詳しい解決法が書いてある本は見たことがない。「幸福になれない症候群」という本があるが、著者はあの大川隆法だよとだけいっておきます。

じつは不幸を単に目指しているようでいて何か苦しみを回避する仕組みが働いている可能性もあります。

不幸を目指すつもりがないが上記の行動をしてしまうこともあるでしょう。

あまり快楽が強いと落ちたときの痛みも激しいし、幸せになる手段が一度全部絶たれると不幸の範囲しか選べなくなる。

また不幸から逃れると別の不幸にあう。マーフィーをよく読んで納得していませんか?

つまり、人生山をつぶせば谷もない、急に大きな幸運が手に入るとぶっ壊すのです。ところがぶっ壊したところでかわりになりうる物もない、不運だけが蓄積してしまうのです。

戦略が間違っているのならかえるしかありません。

なぜか自分に「こういうことをやりたいんだったら本心なので止められる手段はない」「だったら本気で不幸になろうか」と問うと本心がびくびくし始め躊躇しようか迷います。

なおいわゆる陰謀論に染まっている人もいると思われます。人類への搾取は人類、いや自分が止めるも読んでみてください。

宗教は信者に負担をかけないのがよし

宗教というものは、人を幸せにするためにある。
神様のためとよく言うけれど、人間がいなければ宗教はできないので結局人間のためにあるのが必然です。

そうなると、考え方を変えないといけない。お布施するのは正しい宗教になら、いいと思うのですよ。
しかし、人間を幸せにする以上、信者にまったく負担をかけない宗教が一番いい。負担をかけては幸せを取り上げてしまうことになる。

ということは、信者のお布施や集まる時間が少なくともやっていける宗教が一番いいことになる。伝統宗教はだいたいそのようなものらしいです。とまあここからカルト宗教の一つの見分け方がわかるのです。

カルト宗教というのは結局人の大事な幸せを自分だけに捧げて欲しい人がやっているものだと思います。たぶんね、神様のためとかいうけれど人間がやっているものが宗教なのですから人間を大事にできないのはカルト。

宗教の究極の形態とは何だろう?
信者の負担ゼロだと普段通りの暮らしの中に光が入るかたちになり、法具などはいらない。心構えだけでよくなる。すると信者自身の哲学に戻り、組織はいらなくなる。
何だろうこの感覚。単に哲学する人がいるだけです。それも一種の理想なの?いまいち違和感があります。