資本主義をオープンソースが補完する

資本主義はええ、他の主義よりはいいのかもしれません。

しかし、それでどこまでも発展できるのかが問題です。

みんな、あらゆる世の中の問題を解決するために仕事を持ち、生きているのですが、

なんと、問題がなくなると仕事がなくなってしまうのです。

このことが、インターネットの陰謀論サイトなどで教えられていることです。

最高の医療を提供すると、病気の人がいなくなって、医者の仕事がなくなってしまうのだ、といわれているのです。これが治せる医者は儲からないということなのだそうです。

最高に頑丈な車を作ると、ええそれは実際ランドクルーザーがそうですが、普通の車で頑丈なものができると、それ以上車が売れなくなる。

いきなり車の燃費が改善すると、石油が売れなくなるので、燃費改善のテクノロジーが封じられているともいいます。

オーディオもそうかもしれません。いまのオーディオはへんてこな商品がたくさんあり、お金をすごく浪費するものですが、最高のオーディオができたら買い換えないと思われます。

ちなみに女のオーディオマニアは皆無です。直接コンサートにいきます。これは非常に不思議なことで、オーディオは本当は価値があるのか疑問になります。

また、永久機関詐欺があるのも、貨幣経済では購入金より多くの利益を生んでは問題があるのを使っています。

原理的に激安で、高度なことのできるテクノロジーも、受け入れられないでしょう。結果ケチにケチったすぐ壊れるものばかりです。

Windowsもそうかもしれません。よく問題が発生します。最高に素晴らしいといわれるBeOSが広まらず、Macは高いです。Solarisは私の調べではわざとパフォーマンスを低くしている。Linuxは一旦動けば壊れにくいです。

このように資本主義では最高レベルの商品が出現するのかというと疑問です。疑似科学やオカルトのレッテルを張られ、全く広まらないものの中に本物があったら?

最高レベルの商品はもはや真理の体現であり、真理は誰のものにもできない、とも考えられたら?

しかしそんなものが結局人間を大きく進化させ、他のビジネスを円滑にするものだとしたら?

そして、最高レベルのものはこんな世の中でどう広めたらいいのか? その一つの解が何とオープンソースです。

設計図を広めて自分でつくってもらうとか、仕組みを公開して自由に改造してもらうとか、それならひろまるのです。

それがLinuxとその上で動くソフトであり、Macと同じことが無料でスマートにできるはずです。

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民主主義はなりたちそうにないです

民主主義が最高の統治方法だと習った人は多いと思います。

しかし、教科書とは裏腹に、どの国も相変わらず問題は多く、国債もどんどん発行されます。民主主義というのがどうしてうまくいかないのかは、最近すさまじい効果を上げだした、 統計 でわかると思います。

自然現象はとくに大量に同じ種類の個体があるものは大体1割の優秀なものと、8割の普通のありふれたものと、1割の劣っているものが発生するのが普通です。

これは、人間が作った機械にも表れます。

電気製品の少数のエリートは店頭で実際に触れる状態で置かれ、だいたいのものが実際に売られるもの、また検査で落ちるものや爆裂値引きして売られる壊れやすいものがよく品質管理しても少し出てきます。

この傾向はアナログ回路に大きく表れます。デジタル機器ではほとんど似たようなものですが、パソコンの特別安いものを買ったら直ぐに壊れたという報告もあります。ビッグデータでなくともよく数値を集めていれば自然現象として特に少ないすぐれた個体が現れるのはよく知られているはずです。

ちょっと怖いけれど、人間にもそういう傾向があったらどうします?おいらは大いにあり得ると思うのですが?そうすると8割の人民がごく少数の優秀な人物に振り回されるということがあってもおかしくありません。

人民が何をやろうが想定内です。うまく丸め込まれるのです。

遺伝的プログラミングというコンピューターテクノロジーがあります。生物の進化を参考に、初めにでたらめなプログラムを大量に用意しておき、目標とする結果に少しでも近いプログラムを掛け合わせ、進化させれば、やり方のわからないことがわかるのです。

これは非常にうまいやり方で、事実仮想空間内の人形を歩かせることなど、ニコニコ動画の実験が有名です、進化論のばかにできないところがここにもあります。

どうりで民主主義といいつつアメリカの大統領はほとんどイングランドのジョン王の子孫で、日本の総理大臣の多くが皇族と血のつながりがあるわけですね。

人民はこれからも多分支配層に振り回される時期が長そうです。さいわい天皇はこれからも幸せにしてくれるでしょう。

要するに、この様な特別優秀な人が少数現れると思われる自然世界では、どのような政治主義よりも優秀な子供にどのような教育を施すかがみんなの運命を左右するのです。

だからって優生学はやはりおかしいと思うのです。しかし、うまく説明するのが難しいです。

どうも能力の低いものがいっぱいできるのには訳があって、日本に軽自動車が多いことと関係がある。つまりその場に必要なものが低いコストでできる。

でも、やはり優秀な遺伝子ばかり立場が上なのか?

何とかするには、仏性の力がいると思います。精神的フリーエネルギー「仏性」とはいったい?

無条件な博愛は胡散臭い?

今の時代、愛をもらいたい人はいっぱいいます。

今の社会は愛をもらうことに重点を置いてる気がしますが、誰かが与えないといけません。

愛を与えることは重要です。

とはいえ、あまり人に愛を与えすぎると、自分が干からびてしまいます。

自分の持っていないものは与えられないと言われます。

愛を与えようという言葉で人を奴隷に出来るかも。怖い。

また、愛をショートさせる存在もいます。

愛を与えても暴力で返されたり、無視したり 実は詐欺だったとかいろいろあります。

また、AKB48の”UZA”って曲が本当にウザがられるように 自分のわがままな愛を押し付ける存在もうざいですね。

という事なので、愛より大事なものがじつはあるんだよ。という事を、押さえておきます。

それは多分、「存在」です。

またまた胡散臭いシリーズですが人を無条件に愛する、人から無条件に愛される、というキーワードで大衆を支配しようという者が現れているかんじがします。

愛することは大事、でも多分我々の持っている定義による「無条件」に、なんて無理です。

神様の持っている大いなる愛とは簡単に真似できるものではないのです。

地獄もある、というのがわからないところです。

それと無条件にあらゆる人から愛される環境を目指すのは、これは堕落する確率がかなり増えると思います。

人間には知能がありますからね。なんか愛する理屈がないとダメです。でなければ多分そういう環境を無理やり作ったのがカルト宗教ではないかと。

追記:
最近いじめの問題が噴出しています。そこでこの言葉を公案してみて。

いじめる人と、いじめられる人の自由。いじめる人と、いじめられる人の平等。

左翼にはこういうのがわかるのかな???

心が向上しなくなる「平和」はうさんくさい?

平和、これは一番絶対目指すべき方向なんだけどこれは、しかし、むやみに平和を追究してしまうと、周りからいじめられてしまうのです。

いじめをやめさせたいと止めに入った人がいじめられて心がボロボロになることがあります。

これを全体の悪の量で考えると、いじめられた人は相当な悪を抱えてしまいますから、1人が2人になって悪がさらに増えてしまうケースがありうるのです。

そうです、いじめの傍観者のやっていることはちょっとだけ正しいところもあるという、そういうことなんです。(もっとも、大多数でいじめを止めれば収まる可能性が十分あるのに しないのは 悪しき本能だろう)

喧嘩の制裁だってなかなかできるものではありません。

個と言うものが存在する限りまわりとどこかで戦わなくてはいけないのかという そういう考えも浮かぶのです。

体の免疫は常に 細菌やウイルスと戦っています。戦わなかったら、自分はなくなってしまいます。

細菌も 自分を保とうとします。(そういえば名前に菌をつけて呼ばれた経験ありません?)

攻撃というのは、存在を保つためにあって、ましてや、いろんな生物や心があるこの世で 自分の嫌いなものに出会わないということは考えられない。

精神的に弱肉強食の人間社会、平民の身の回りであっても いろんな争いごとがあるのに、いきなり国全体、世界全体を平和にすると言って、未だ取るべきでない最終フェーズを実行するのは危険なのです。

例えば、兵器を全部捨てることです。

だから平和というのはうさんくさい連中も言うことなんです。

ブッダでさえ、殺されそうになり、キリストでさえ、磔になった。もちろんキング牧師も殺された。

正しいことを通すにはまだまだ、実力行使が必要なようです。人間は最終的にはそれに屈する本能を持っているのです。

また、ジブリの宮崎駿と鈴木敏夫の喧嘩のように、最終的に良いことにつながってゆく争いもあります。

どっちが正しいか納得行くまで戦い、折檻します。そういう争いをなくすのは、逆に良くないと思います。みんなロボットになってもおかしくありません。

結局今の一般的な定義の「自由」「平等」「平和」というものたちは互いに矛盾し、3つとも極めようとすると混乱してしまうと思います。

この3つが互いに牽制し合うことがいちばん重要です!

それより自然の生態系を見習いませんか?動物たちはみんな鋭いかんを持っているし、なんでもリサイクルされるし、住むと厳しいけれど何故か心が洗われるらしいじゃないですか。

賢人、愚人、皆同じな平等は胡散臭い?

平等というものの本来の意味から、現代文明で使われている意味は、なんだか違うように思えるのですね。

みんな平等だといいといって、ノミとカンナに同じ仕事させようとしても、ノミは彫るのが得意だし カンナは平らにするのが得意なので どうもちがう。

それと、弱肉強食の世界で飢えたらどうなる?という話もある。

この自然の食物連鎖ではそのなかのどれかの動物が少なくなる>餌が減る と考えられます。食料をどう食うかという問題になる。

みんな平等にたべていると、食料が少ないのでみんな死んで種が途絶えてしまいます。

こういう時はそう強い個体が食料を確保して子孫を残すのです。

それが自然の掟だったのです。まあ人間は農業や畜産で何とかしのいでいます。

しかし、食料だけではなく、強い者を優先しないとみんな潰れることはありうると思われます。

男女平等といっても、どう、平等なのか メディアのジェンダー論を鵜呑みにしないで考えるべきです。

意外と、原始人と差別されそうな自然に生きている人は このへんよくわかっているとのことです。

みんな平等だと言っても、仕事能力などいろいろな違いが人にはあります。

本を読んで改善してもしきれない部分がありますが そのなかで最たるものは 「心の正しさ」と思われます。

みんなでなやむより正しい人ひとりに相談したほうがうまくいったりするのです。そう、もういないけれどブッダです。

みんな自然とブッダを守るようになります。

また正しい人が国を治めるといい国になります。

でも、みんな平等と言って投票だと、中学校で社会科の先生がこんな感じのこと言っていたんですけれど、

「暴走族のやつが律儀に投票に行くんだぜ、いい加減に候補決めて。 こんなやつと俺が同じ一票だ? ふざけんな だから俺は投票に行かない。」

普通の人は気分で投票行ってしまう。国の運命がかかっていても。なんなら、ブッダに王を決めてもらったほうがよほどいいです。

結局、本当の平等というものは、宇宙の法則のもとの平等だと思うんですよね。

劣っている人も、優れている人も、何故かみんなおんなじ宇宙に存在する。軽自動車もフェラーリも同じ宇宙に存在します。それに文句を言う人はいない。

その法則は、量子学の学者が東洋哲学に学んだりしているし、逆に科学法則が心の世界でも通じたりする。(エントロピー増大なんて特にそうです。)

だから、宇宙の法則に従うものが、幸せになれる。人間の作る平等より、宇宙の法則にならった社会の構造を作るほうがいいかな。

余談ですが男女平等についてです。

これは、ジェンダーフリーが何なのか自分はよくわかってないので、結論を云います。

「性格が男に近い魂が男に生まれ、女に近い魂は女に生まれる」 性格によって、入れる肉体が違うのです。

無理しなくていいんです。自分でいいんです。他の人にもそうさせて。集団でまとまっているならそうさせて。それでこそ男女平等です。

無理して「看護婦」を「看護師」と言う必要はないでしょう。事実女性という「個性」「性格」の人が多いのだから。

男女平等の運動はなぜか女を男に、男をロボットにさせようとしている気がします。

男女平等の運動は検索しても明らかな結果が出なくて、なにがしたいのかよくわからないことがありませんか?

(この提案はベータ版です)

自分は、身の周りで自分より正しい人を推薦し、推薦された人が彼より更に正しい人を彼の周りから推薦・・・というふうにして組織の首領を決めてゆくといいかなと思っています。(そうです、トリビアの泉で美人を探すのに使っていたような方法)

あとそうだ。ようは、自分も他人も互いに搾取がない、そういう哲学で既に語られていることが自由と平等だったりして。

好き勝手が自由というのは胡散臭い?

自由がもてはやされた20世紀から現代ですが、何か、そこで中核になっている「自由」という言葉の意味が 何か、正しい方向と違うのではないのかと思うのですが。

この自由というのは、好き勝手なことをできるという意味が多分に入っているとおもうのです。

最初は、信教の自由から始まり 政治の自由もだんだん広まりました?

がだんだん、その自由ということのエントロピーが増大して、(つまり、綺麗な家が廃墟になるように こんがらがって)レディガガが雑誌のトップに裸体の肉盛りを出せるまでになりました。

本当の自由というのは、果たして、この宇宙に存在するのでしょうか?

自由と自由の相克する中に悪が現れるといっている人がいて、自由はある程度引っ込んでいなきゃいけない。

昔はつつましく生きることが、当たり前とされていましたが、今は、みんなやりたいことがやれることがいいことだという「自由」のもとに自由と自由の相克が、半ば認められるようになってきたんじゃないかと。

たとえば 好き勝手テレビでお笑いやりたいほうだいのドリフターズの中に、結局上下関係があり、いじめがあり、それが彼らの演技の中に現れてしまって、子供が見ることで 学校でいじめが増えてしまったんじゃないかなと。

それと 好き勝手やるというのは、実は、本当の自分の意志以外の何かが入っても、それを許容してやりたいことにしてしまうことも考えられるのです。

テレビを見てこれを買いたくなって、買うというのは、なにか、判断が抜けているのです。

それは、テレビに本当の自分の意志じゃない思いを吹きこまれているのかもしれません。テレビは、上手な宣伝の方法をみにつけていますから、彼らは彼らの自由のもとにやっているのです。

カントという哲学者の名言があって、本当に自由になるということは、好き勝手に振る舞うことではなくて、自律することだというのです。

自律するという事の意味は考えれば考えるほどわからなくなりそうです。結構深いです。

少なくとも自分がロボットじゃなくなってゆくことだというのはわかります。

また好き勝手に振る舞う子供を自律してるとは言わないでしょ?なんかそれも暴走ロボットみたいなの感じません?

ロボットにも、リモコンで動くロボやこうなったらこうする、この状態であればこうするというif-then-elseの思考のロボもよくありますが、自律運転と言うと 目的の状態までやり方を試行錯誤しながらちゃんと知能みたいなの持って行動する意味になるんですね。

今の人は自分の「自律」を育てられる環境にはいないです。だから(自分も含めて)若い人は子供臭いのです。

そうして、if-then-else思考や受信したものを反復する思考が埋め込まれいろんな、そう、うさんくさい宣伝媒体にのせられているのです。

誰の言い分も絶対ではなくなり、真に自律できた時、ブッダのような偉大な存在になれるのでしょう。

彼は悪いことは何もしません。自分の自由をひとにぶつけません。

それどころか執着から完全に離れているため、教えを説くだけしかしません。それもいつも教えを請われてからかえします。

でも真の自由はブッダのこころにあるのです。自律しているのですから。